ブログ
タイパコスパの考え方はタイパコスパが悪い
はじめに
僕は昔、明確に頭が悪かった。自覚している。学校の成績は最下層にいたし、かといって運動を頑張るでもない。そんな僕が一応博士を持ち、色々なことを科学的に見れるようになった理由を書いていこうと思う。
自分はなぜ馬鹿だったのか
こういうと「今は頭いいのか?」と思うかもしれないが、もちろんそういうわけではない。昔よりマシになっただけだ。馬鹿には理由がある。それはなぜかというと人間の能力はほとんど変わらないからだ。学力や運動能力は遺伝の要素が大きい。しかし、それでも学校でできるぐらいの範囲で運動で言えばオリンピック選手が出たりはなかなかしないだろう。おおよそ誤差の範囲なのだ。もちろん中にはとんでもない天才がいる。逆にとんでもなく頭の悪い人もいる。それは例外でほとんどのひとの能力はほぼ差がないと考えている。
元の能力がおおよそ同じなのに、大きい差が出るのはなぜかというと成長率は同じでも成長しているかしていないかという差があるからだ。
逃げるという選択肢
僕がそれに気がついたのは20代後半の大学院で研究している時だった。周りは医師ばかりで頭のいいひとの中で研究していたのだが、その時に周りと自分の差に愕然とした。同じ人間でも能力に差がありすぎるだろうと。そして何となく賢い人はどういう行動を取るのかと観察をしていた。その時にフト気がついたことがある。
賢いひとは問題に対して全力で向かっている。
これはどういうことか?ここで例え話をしよう。ここに難しい微分の問題があるとする。高校生の僕はそんな問題を見たらこんなことを思っていた。
『微分積分なんか残り一生使わんし!!!』
では賢いひとはどう考えるかというと
『この問題を解くにはどうしたらいいのだろう?』
と考えたと思う。当たり前に思うかもしれない。だが、僕はこれが差だと思ったのだ。
僕は言い訳をしたのだ。つまりこの問題から逃げたのだ。そして、賢いひとは問題に対して立ち向かったのだ。
問題がそこにあって逃げた人間と立ち向かった人間、どちらの方が成長するだろうか?逃げた人間が成長するだろうか?成長するのは言い訳スキルぐらいだろう。立ち向かった人間はどうだろうか?解けなかった問題が解けるようになれば成長だし、仮に問題が解けなかったとしても「その方法では解けなかったという経験」は得ただろう。その経験を得ただけでも言い訳して逃げた人間より成長していると言っていいと僕は思う。
この『積み重ねの差』だと思ったのだ。
積み重ねが一番大事なのだ。
時は金なりという言葉があるが、時間はお金の用に価値があるという意味ではなく、本来の意味は複利サイコーという内容だ。雪だるま式に増えるのが一番効率がいいという意味なのだ。
賢いひとは地道に積み重ねて成長に複利をかけているのだ。だからドンドン賢くなる。僕は言い訳して逃げているので成長しない。せいぜい成長したのは「言い訳スキル」ぐらいだ。これは逃げ口上がうまくなるだけで成長から離れていっている。
つまり僕が馬鹿だった理由は
言い訳をしていたから だ。
言い訳に論理的整合性があるとかないとかそんなことはどうでもいい。言い訳に能力を使った段階で負けなのだ。自分の能力が下がる方に向かっている。
タイパコスパの考え方がなぜ悪いか
タイパやコスパが悪いことを理由にしないという選択肢をとるからだ。つまり逃げている。これでは成長しない。長い目で見れば自分にデバフをかけている。
タイパとかコスパはとりあえず横に置いておいてまずやってみる。これが自分にバフをかける行為なのだ。
そもそも論になるが、タイパもコスパもやったことないヤツはわからない。やってみて初めてわかることなのに知ったふうな口を聞いてやらず、自分にデバフをかけるのだ。滑稽で仕方がない。
おわりに
人間の成長はできないことができるようになることだと僕は思う。それはやってみて初めてできないことがわかり、できないという経験から何が足りないかを分析し、できるようになるこの過程が非常に大事なのだ。逃げるという選択肢は原則この過程が起きることはない。逃げたことによって時間を作り、別のことをするならまだいいかもしれないが、逃げるという選択肢は安易に選んでいい選択肢とは僕は思わない。
AIの話をした時にも少し話をしたが、経験の伴わない知識や情報はあまり意味がない。その情報はAIが教えてくれる内容であり、人間の存在意義にならない。
ヒトという生き物がヒトであるために必要なのは感覚を伴う経験なのだ。