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『空手大会で小学生が背後からの攻撃でケガ』のニュースを見て

はじめに

僕は長年大学生の空手道大会の大会ドクターをしてきた。このニュースを見て思うことがある。

僕は主に関西学生空手道連盟が主催の大会のドクターをしてきた。この連盟の審判は非常に練度が高く、審判講習会などが頻繁に行われており、日々審判としてのクオリティを維持しておられる。しかも、全員がそもそも強い選手だったひとしかいないので、身のこなしからしてその辺にいるひとと格が違う。

僕自身学生時代選手をしていたこともあるので、選手としてジャッジングを受けたことがあるが、この連盟の審判のジャッジングに不満を持ったことはない。

それが当たり前だったのでなんとも思っていなかったのだが、SNSを見ると「あの審判おかしい」とか「あそこのジャッジングは納得がいかない」という意見は散見する。

そして、実は僕も違う大会に出場して納得のいかないジャッジを受けたこともあります。長年関わってきたからこそ話せる体験談を踏まえてお話しできればと思う。

空手道の種類

事件を理解するためには空手のルールを理解する必要がある。

空手道の競技の種類は大きく「形」と「組手」がある。「形」は決められた動きがあり、その通りに動き、動きのキレや正確さを競うものだ。選手同士のコンタクトは原則ない。「組手」は二人の選手が対峙し、殴ったり蹴ったりするというイメージだろうか。興味のないひとは「柔道と何が違うの?」というのだが、柔道は投げたり抑え込んだり、空手道は殴ったり蹴ったりという感じだと思ってもらったらいい。

ただ、この「組手」に関しては流派によってルールが様々あり、今回問題になったのはフルコンタクトというルールだ。またフルコンタクトでもルールがあるのだが、その辺りを詳しく説明していこう。

ライトコンタクトとフルコンタクト

ライトコンタクトルールとは、一般的に寸止め空手と言われたりする、東京オリンピックに採用された空手のルールだ。当てないが基本と言われているが、厳密に言うと当たっている。当たった瞬間に技を引いて残心をとる。その一連の流れが綺麗に決まると技として認められてポイントが取れる。そのポイントで勝敗を決めるルールだ。

突き(パンチ)なら上段でも中段でも1点、中段蹴り(キック)なら2点、上段蹴りなら3点といった具合だ。足払いなどで転かしてからの下段付きが綺麗に決まれば3点というのもあるが、今回の説明では割愛する。

格闘技を知らないひとに説明するために詳しく書くが、上段は頭、中段はお腹、下段は太腿辺りを攻撃する。このライトコンタクトのルールでは下段の攻撃はない。

フルコンタクトルールとは、キックボクシングに近いルールで、相手を殴ったり蹴ったりして倒すことを目的とする。キックボクシングと違うのはグローブがなく、上段の突きがない。頭は蹴ってもいいが、殴ってはいけないルールなのだ。基本的には倒した方が勝ちというルールだ。

その他

ライトコンタクト、フルコンタクト問わず、防具については様々だ。ライトコンタクトであれば、グローブに腹当て、最近であればシンガードなどがあることが多い。そして、子どもの場合であればほとんどの大会でメンホーという顔面をガードする防具をつける。大人でもつける大会があるが、これは流派や試合によって様々だ。

メンホーをつけない場合はマウスガードといって、歯を保護するような一般的にはマウスピースと言われるものをつける。僕はスポーツデンティストという専門の資格を持っているので興味のある方はご相談ください。(宣伝)

フルコンタクトに関してはローカルの自流派を貫いているところもあり、素手、素面で上段突きありみたいな流派のところも知っている。そうなるとケガはありきみたいなことになってきたり、どこかの骨が折れているとか、奥歯がないみたいなことは瑣末なことのように言われたりする。

事件の概要

以上の前提知識を持った上で、事件を見ていこう。

事件はフルコンタクトの空手道の大会で起きました。子ども選手の年齢は小学生です。ルールとしては、上段突きなし、メンホーという防具をつけてするフルコンタクトのルールです。

加害者選手をA、被害者選手をBとします。AとBは違う道場の選手です。

試合の流れでAの突きが上段に当たってしまいました。わざとそういうことをしてやる気を削ぐタイプの選手もいますが、これは事故で起こりうることです。審判の制止が間に合わない範囲で起きます。これに対しBが自陣の方(相手と逆の方向)を向いて反則をアピールします。

そして、審判は手を出してはいるものの「やめ」の声はかけていなかったそうです。

それを見たAのセコンドは「行け!」といい、Aは指示に従い、Bに上段蹴りを入れ、Bはその場にうずくまり、誰も救護に入らない時間がしばらくあったというのが事件の全容だ。

問題点

そもそも子どもにフルコンタクトのルールの空手をさせるのか?というものもある。僕の記憶が正しければ昔のフルコンタクト空手は少年部では組手をしなかったぐらいだが、一旦それは横に置いて今回の事件の問題点を挙げる。

まず、審判の問題だ。審判の制止が間に合っていない。反則が疑われる行為があったとき、「やめ」の声をかけ、手を選手の間に差し入れ試合を一旦止めなければならない。そして、その後のAの追撃に関して間に入って止めに入らなければならない。これが最初の審判の練度の問題点だ。

次に、Bの問題点は「やめ」が入っていないのに相手から視線を切ったり、背を向けてはいけない。審判の「やめ」がない以上、試合は流れ続けるし、試合が動き続けている時に相手に背を向けるという行為は非常に危険な行為だ。Bの問題点だ。

3つ目は、Aの問題点は相手を後方から攻撃した点だ。後方からの攻撃は反則で相手が後ろを向いたからいいというものではない。そもそもルールをどれほど理解しているのか?という問題がある。ただ、これは次に問題点として語るが大人からの指示がある。

続けて、A側セコンドの大人の問題だ。相手が油断をしたところをつくという気持ちはわからなくはない。しかし、こどもの試合だ。子どもを危険に晒す、子どもに危険な行為をさせるというのは避けるべきだ。

そして、事故が起こった後の対応だ。これは周りの大人全てと言えるかもしれない。僕がドクターとして出ている試合であれば、選手が倒れたなどがあれば、審判の大きい声で「ドクター」と呼び出しがかかる。そして、各コートごとにブザーが配置されていて、試合の助手がそのブザーを押す。そうするとドクター席でブザーが鳴り、どこのコートかわかる。そしてドクターがコートに駆けつける。僕が呼ばれてコートに向かうまで1分かかったことはない。

ただ、これは関西学連の審判の練度が高いことと、ブザーもつけてくれたことに由来する。それまでも1分かかることはなかったと思うが、より早くコートが把握できるようになった。

どれか誰が悪いではなく、これらのことが複合的に重なり合って起きた事件だ。Aの上段の突きがBに当たってしまったまでは事故といっていいだろうが、最後まで見ると事件になっている。

改善点

まず最初の問題としては審判の練度だ。これは僕が今まで審判の練度の高い大会に出ていたから気にしていなかったが、審判の練度を保つということがいかに難しいかということだと思う。ただ、審判の日当などは決して高いものではない。場合によってはボランティアなどもありえる。その中でどこまで練度を保つことが担保されるのかは本当に難しい。しかし、選手の安全を守るために練度を保っておられる審判の先生も大勢おられる。これを当たり前にせず、対価をしっかり払い、それに対し審判の練度を保証するような形にした方がいいのかもしれない。

「やめ」をしっかり大きい声でいう。それでも止まらない選手がいたら割って入る。ドクターの呼ぶ声も大きい声を出す。当たり前のことのように思うが、咄嗟にそれができるということがいかにすごいことかということなのだ。

ひととひとが対峙して戦っているとき、1分ですら途方もなく長く感じるのだ。

選手A,Bについては僕はこれは問題に問われるべきではないと考えている。理由は子ども(小学生)であるからだ。Bの相手から目を逸を逸らすなという点や、Aの後方からの攻撃に関して、子どもなのだからそういうことはあり得る。大人ならばそれぞれの選手も多少の責任はあるだろう。A,B共に子どもであるならば、周りの大人が守らなければならない。審判然り、セコンド然りだ。

あとはA側のセコンドに関しては根本的な考え方に問題がある。後述するが、人間教育という部分が抜けていると思う。確かに試合で勝つことは大事だ。試合では勝ち負けこそ結果であり、日々の練習は試合に勝つためでもあるだろう。しかし、今回の選手は小学生だ。この試合に勝とうが負けようが人生の残りはだいぶ長い。その試合がオリンピックのレベルならその1勝は人生で大きな意味があるかもしれない。しかし多くの試合はそんなものではない。人生において小学生の頃の試合の勝ち負けは些細なことなのだ。

その後の周りの大人の対応についても少し疑問がある。しかし、スポーツの大会にドクターを潤沢に呼べたり、ナースに来てもらうということは簡単ではない。小さい大会でよくあるのは誰か選手の保護者がナースでそのひとが救護を行っているというパターンだ。ドクターが来てもそのスポーツに対する競技性の理解が少なかったり、知識が更新されていなかったり、スポーツ外傷に理解のあるドクターを呼んでくることも難しい。

安全を担保した空手の大会運営というものがそもそもかなり難しいということを理解することがまず大事なのかもしれない。

武道は何故人間教育を問うのか

空手道を始めとする武道は『道』を問うており、この『道』とは生き方なのだ。単純な勝ち負けだけではなく、人間教育としての武道をしている人もいれば、ただただ強くなりたいだけというひともいる。

武道においてなぜ『道』が大事かというと、強い力を無法者が持てば暴力になるからだ。そして無法者を抑えるのに強い力が必要であることがあり、自分に正義があっても力がないとそれを貫くことができない。正しければ強いというわけでもないのだ。強いひとに正義があることが大事なのだ。

健全な肉体に宿る健全な精神なのか、健全な精神に宿る健全な肉体なのか。少なくとも身体を鍛えるということは精神を鍛えることにもつながるし、道場という場ですることによってみんなでするからこそできるということがある。これを「大衆の威神力」という。きつい練習も自分ひとりではなかなかそこまで追い込めないことをみんなとだからできるということがあるのだ。

こういうことを学ぶことも武道の大切さであろうと僕は思う。

ある空手の指導者が道場に入る時に靴を揃えること、挨拶をしっかりすることを大事にするというひとがいた。実在する人物であるがこれを仮にX道場としよう。X道場は基本の練習を重んじ、「形」の練習も「組手」の練習もバランス良く行う道場としよう。もう一つ架空の靴揃えるとか挨拶とかどうでもよくて「組手」の練習をバリバリする「基本」とか「形」とかどうでもいい道場。試合で勝つことが正義の道場。これを仮にY道場とする。

それぞれの道場に子どもが通っていたとする。

X道場の子どもはもしかしたら試合で勝てないかもしれない。特に「組手」に関してはY道場の子どもに負けるだろう。しかし、それぞれの子どもが大きくなった時どういう子どもになるだろうか。

X道場で育った子どもはよその家に伺った時にも靴を揃えるだろう。他人に会った時に挨拶をする人間になるだろう。

Y道場の子どもは結果を求める人間になるだろう。例えばテストがあったときに結果だけが良ければいいならカンニングをすればいいし、ただ殴り合いに勝てればいいならドーピングをすればいいのだ。それが途中経過を大事にしない結果を追い求めた結果だ。

かなり大袈裟な言い方をしたがつまりこういうことなのだ。特に子どもを教える時には人間形成の部分が大きくなる。その時に大事にしないといけないことを大きい力を持っている、もしくは大きい力を与える方は考えなければならない。

今回、A選手側のセコンドはそのあたりを軽視していたように思う。

大人になれば自己責任ではあるが、子どもの場合、その子どもの常識を作っているということを理解しなければならない。アインシュタインは『常識とはそのひとが18歳までに集めた偏見のコレクションである』と言っている。

おわりに

空手道というのは競技の特性上注意しないといけないことが多い。そもそも格闘技が危ないという見方もある。フルコンタクトでの子どもの組手というのは確かに見直した方がいいのかもしれない。

しかし、武道という日本の文化は大事にしたいと僕は考えている。

その武道における精神性の高さこそ日本人の真骨頂だと思うのだ。

大いなる力には大いなる責任が伴う。武道は特に大いなる力を与える力がある。そのためにはやはり人間教育というものが大事になるのだ。その人間教育を行う人間がダメな人間であればダメな人間が育つし、素晴らしい人間であれば、素晴らしい人間が育つだろう。

今回の事件は子どもが空手の試合で反則をしたとか、子どもが空手の試合でケガしたという事件ではなく、空手の指導者や大会運営がどれだけ意識高く運営されているか、意識高く運営することの難しさなどを訴えかける事件だったと僕は考えている。